公開日 2017年11月22日
2017年11月22日(水)晴れのち曇り
中奥川沿いに山の奥へ奥へと進むと手彫りで削った隧道があらわれ、通り抜けて振り向けば、そびえ立つ巨岩を目にすることができます。村人が「大塔さん」と呼ぶところです。
大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)は延慶元年(1308年)、後醍醐天皇の皇子として生まれました。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕の為、元弘の乱を起こすと参戦し、十津川、吉野、高野山などを転々として戦い続けました。吉野山で幕府軍に敗れ、熊野へと落ち延びる途中で道を誤り、このあたりに迷い込まれてしまった。その時に病を得、山の奥へと隠れて療養されたと伝わります。
【大塔さん】
護良親王の隠棲の地とされる「大塔さん」の巨岩の頂きには小さな池があり、護良親王が可愛がっていた金魚が今でも泳いでいるという伝説があります。
【巨岩の下の隧道】
1333年に鎌倉幕府は滅亡。護良親王は建武の新制で征夷大将軍に任じられますが、討幕の功労者足利尊氏のほか父である後醍醐天皇とも反目。征夷大将軍を解任され、1334年冬、皇位簒奪を企てたとして捕らえられ鎌倉に送られます。
1335年、中先代の乱がおき、関東各地で足利軍が北条軍に敗れた際、幽閉されていた護良親王は足利直義の命によって殺害されました。
護良親王がいつ頃中奥におられたのかは不明瞭ですが、元弘の乱から鎌倉幕府滅亡までの二年近く、吉野熊野を東奔西走された事は間違いない史実といわれています。